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【小説】69歳の学生から20代の学生たちへ

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タイトル:電園復耕~大通りからそれて楽しく我が道を歩こう

この記事はオルタナSに掲載された小説です。

なぜ人を押しのけて狭き門に殺到するのか?自分を愛し迎えてくれる人たちとの人生になぜ背いて生きるのか? この書き下ろしは、リクルートスーツの諸君に自分の人生を自分で歩み出してもらうために書いた若者のためのお伽話である。(作・吉田愛一郎)

第一号◆大手町の朝

夕方、樵の敏ちゃんとばったり大手町で会う、He looked alright 遺産相続の税金で四苦八苦していたが、親が残した山を東京の会社が使いたいという話があってその相談で東京に来たのだという。山はフキノトウが終わってこごみが出始めたそうだ。スキーも来週で終わりらしい。

外資系損保会社三年目の吉井啓介は柳の芽吹く夕方の丸の内を江戸橋から東京駅を左手に見て大手門に向かってむかって歩いていた。
ここは丸の内、多くの一流企業がひしめく街だ。
帰国子女の英語力だけで採用されたが、英語は社内の役員と話すだけで、外回りには必要ない。
むしろ漢字が書けなかったり、世間知らずの方が問題になった。
「それで大学出ているの?」など嘲笑されることは日常だった。
それでも啓介はアメリカの本場カレッジベースボールで鍛えた体力と屈託のない笑顔と体育会の礼儀正しさで営業成績は同期の中でトップクラスだった。 しかし傍目には順調に見えたかもしれないサラリーマン生活が、どうも彼には面白くないのだ。
販売する保険はいつも同じ、自分で企画したものではなく、上から与えられたものだ。中央区、千代田区、港区をくまなく回り、新規の客を探し、代理店を回る。
「ありがとうございます」と「すみません」を多発して一日を終わる。
どうでも良いことに礼を言い、悪くなくても謝る。日に日に言葉の種類は少なくなり、心の中の思いと口をつく言葉が全く違う毎日だ。
こんなことを繰り返して一生を終えるのだろうか。
あの平山係長のように変な英語で役員におべっかを使い、俺たちには売り上げの事しか言わないようになるのだろうか。月末を過ぎればまた同じことの繰り返し。年に何年かの売り上げキャンペーンも、もう飽きた。
既に日は傾き、皇居の森が堀に影を落としていた。が、人の流れはその勢いを増していた。
この季節は黒っぽいリクルートスーツの若い男女が多い。一群となってビルに飲み込まれ、吐き出されている。 黒くて細い彼らは、まるで暗い色の魚の群がビルの谷間に群がっているようだった。
魚の顔が見分けれれないように、彼らの顔も皆一緒に見えた。
色がない。
「Colorless Looks」と啓介はつぶやいた。
それは白や灰色や黒と言った無彩色の意味ではなく、かといって透明でもない無の色なのだ。
コンクリートの海底を移動する色のない大群だった。
こんな海底にスキューバダイビングして来たら気持ちが悪いだろうなと啓介は思った。
体を反転して海面に戻ろうとしても戻れなくなったらどうしよう。
途中で息が切れて目が覚める、そんな悪夢を子どもの頃よく見た。
啓介は足早にその一群から身をかわそうとしたが一瞬そこに顔らしき物を見たような気がした。
そこには色があった。
色の抜けたブルーのベースボールキャップの下で笑っている赤銅色に焼けた顔。
そう、それは敏ちゃんの顔だった。敏ちゃんも啓介に気が付いて驚いた顔になったかと思うと顔をくちゃくちゃにして笑っている。
 

 

第二号出会い

輿水敏夫だ。細身だが、がっしりしている上半身が薄汚れたレンガ色のスウェットの下で息をしている。ジーンズの膝の部分が破れているが、これは作業中に破れたので、ファッションで破いたのではない。

黒いダナーの様なトレッキングシューズはかなりくたびれている。「ケイちゃーん」と彼は驚きとおどけを混ぜて大声で呼びかけてきた。周りの魚たちは無反応に流れてゆく。敏ちゃんが群れの隙間を狙って、バスケットボールのポインドガードのように腰をかがめ、身をくねらせて近づいて来る。

「なんでこんなところに居るの?」敏夫は嬉しそうに尋ねた。啓介も半身になって色のない人の流れを切り進んで「私はサラリーなんでーす」と啓介もおどけて言った。

近づくとゴーグルの跡だけ、猿のように白く焼けのこった顔が滑稽だった。
「スキー場は?」啓介が尋ねた。
「先週で終わりだよ」
「けいちゃん、今シーズンはあまりこんかったね」
「行けなかったな~。カナダ人のインストラクターたちは?」
「先月末で皆、帰国だよ」
「また来年だね」

話す二人をかすめて魚群は流れてゆく。大柄の啓介は、チャコールグレーにブルーのストライプのスーツに黒いニットのタイをウインザーノットに締めているが、襟元は大きく緩み、胸元のボタンも二つ開いている。

スーツは今売り出しの若手デザイナー北山幸彦が彼の為に自ら選んでくれたものだが、ポケットになんでも突っ込む癖と、脱いで畳まない癖とそれに去年より5キロは太った体には、小さい上によれていた。その体がゆっくりと動き出した。

魚たちが身を引いて隙間を作ったように敏夫には見えた。
相談なしで動くのは山に居ても都会にいても同じだなと敏夫は思った。
「どこに行く」敏夫は尋ねた。
「神田の方で一杯やろう」 
「大丈夫かい」敏夫は一応は聞いた。
啓介は笑って、携帯電話を取り出した。
「吉井です。平山係長お願いします」
しばらくして平山のしわがれ声が敏夫にも聞こえた。
「どやねん」
啓介はこの関西弁が苦手だ。なんて答えていいかわからないから少し黙っていた。
「もしもし、売れとるんか?」と平山の声がもう一度した。
啓介は敏夫に不愉快そうに眉を曇らせ「今、山梨バルブの関係者と会っています」と低い声で答えた。
「相手はえらいさんか?」平山が執拗に聞いてきた。
「ひらやまさんです」啓介はしまったと思った。
いつも平山をヒラ同然の係長などと同僚と揶揄していたせいでこんな悪い冗談が口をついてしまった。しかし平山はそれを冗談と取らず、「なんやワシと同じ名前かい」啓介はほっとした。
「偉くはないですが、社長とツーカーですから」
啓介は敏夫に目配せをして「しばらく話し合いますから、遅く帰社します」といった。帰社してもしなくてもどうでもいい。
平山は毎日5時きっかりに退社するからだ。

啓介が言ったことはそれほど嘘ではない。敏夫は山梨バルブの子会社が経営するスキー場の季節従業員だからだ。林業労働者は積雪のある冬場は仕事が無い。だから雪の季節には出稼ぎするか冬場の仕事に付くかするのである。敏夫は毎年スキー場でパトロールをして暮らしている。シルバーバレースキー場と言うのが敏夫の職場で、その親会社は山梨バルブである。

山梨バブルは日本がバブル経済に浮かれていた時、ご多分に漏れず大儲けした。東証に上場したときはみな山梨バブルと言ってその株価に注目したものだ。当時のあり余る資金で山梨バルブは多角化経営に乗り出した。その一つがスキー場経営である。山梨スキーリゾート株式会社の社長は、親会社山梨バルブの次男45歳の小沢豪太である。

そんな関係で啓介は山梨スキーリゾートに保険代理店を引き受けてくれないかと敏夫を介して勧誘していたのである。ビジネスよりもスキーそのものが大好きなぼっちゃん社長は敏夫を年の離れた弟のようににかわいがっているから、啓介が携帯で平山と話したことはまんざら嘘でもないのである。

二人は五時前の永代通りを右に曲がって日比谷通りを歩いた。この偶然の出会いと不意の右折が啓介の人生を大きく変えることになるのだが、こんなふとした右折が若者の人生を大きく変えることなどは決して奇遇ではない。むしろ奇遇の方が普通で、大きな群れが狭き門に殺到して、仲間を蹴落としながら直進することが普通なら、普通とは本当に骨の折れる罪な生き方なのかもしれない。

 

第三号◆陰鬱な春

右に曲がってしばらくして啓介は敏夫に聞いた。
「曲がってよかったかな?」
「わからん」
敏夫が答えた。
「なぜ曲がった?」
「わからない」
啓介が答えた。
「会社に戻らないためかな~」
3月の中旬に差し掛かっているのにまだ寒い。肌寒い中を群れる黒い魚たちはさっきより少なくなった。
「これからがいい季節だ」
啓介が言った。
「いや、俺は今が一番嫌いだよ」
敏夫が答えた。
「なぜ?」
「紅白の梅が終わって柳の緑と菜の花の黄色、桃がピンクで桜が散るだろう? 山藤の紫が終わるとそれで打ち止めずら。終わりのない春があればずーっとワクワクしていられるんだが、直ぐに嫌な梅雨がやってきて、それから厳しい夏だぜ。秋になればさびしくなって。しめじ採りが終われば真っ白な無だよ。暖炉の脇で遠い春の事を考えられるからワクワクして来る。ワクワクすることをワクワクして待つんだ」
敏夫が啓介の方を見て続けた。

「入社試験にワクワクする奴なんかいないよね。ワクワクするのは入社したら皆であれもやろうこれもやろうという思いだろう?でもその前に群れを絞り込むトサツ場のような儀式があるんならおれはごめんだな。誰かが脱落するんならワクワクせんよ。だから今の季節はいやだってんだ」
啓介はいたずらっぽく議論を吹っ掛けた。
「でもそれを生存競争と取ってみたらどうだい。無数の精子が卵子に群がるように、、、、」
敏夫は「そうだね~」と言った。
「だけど皆が死んで俺だけ生きてても面白かなかろう」
啓介はさらに
「でも入社したら40年間位ぶら下がられるんだから。大学までは親がかりで、就職も親がかりで、それから会社がかりで、退職金と年金を貰って死んでゆくのかい?そいつは素晴らしく楽な人生だな。だから狭き門に殺到するんだね。素晴らしい社会主義だね。中国もロシアもなしえなかった社会主義を日本は一応完成したんだね。40年も楽できるなら仲間を蹴落とすよ。それに精子じゃないから一人きりってわけではないよ。同期はいっぱいいるしね。幸せな仲間たちだ」
だけど、と敏夫は口を挟んだ。
「ほんとに啓ちゃん楽しいかい」
「わからないって言ってるだろ」
啓介は少し強く言った。
「そもそも俺、会社訪問ってなんだか知らなかったからね。そこからもう曲がっちゃってたんだから。ある日突然いつもジーンズにスウェットの同級生がダークスーツを着ているのに会うだろ?怪訝に思った俺が笑っちゃってどうしたんだよって聞くと、真面目な顔で会社訪問だって言うんだ。オレはアメリカのハイスクールの時、ボーイングやNASAの工場なんかを授業の一環で見学したことがあるから、なんで大学生にもなって自主的に工場が見たいのかなと不思議に思っていたよ。今考えるとそれはインタビューだったんだな」
啓介は話を途切って敏夫に念を押した。
「俺たちこっちに曲がってよかったんだよね」

 

第四号◆若竹

「別にどっちいってもかまわんよ。今日中に小淵沢まで着けばいいだよ。だけんどさっき俺が訪ねた会社の方に戻って来てしまったよ」と敏夫は言った。
「俺なんか毎日東京を行ったり来たりだ。ところでとしちゃん、何しに東京に来たんだよ」
啓介が気が付いたように尋ねた。
「ああそうだね。聞かん奴も変だが、言わん方もおかしいね」
敏夫が笑っていった。
「土地の有効活用だよ。山や田畑を相続することになって、相続税が払えんからに」
「それでなんで東京に来たの?」
啓介が尋ねた。
「田舎の衆は土地がいらんだよ」
敏夫が言った。
「農業や林業はすたれて、人もいなくなっているからね」
「だらなぜ東京に来たんだよ」
啓介がもう一度聞いた。
「山や農地をどうかしようと思う人は東京にしかおらんよ」
「それでこの辺をふらふらしてたんだね」
「ふらふらじゃないよ。俺の土地に興味があるって社長を訪ねて来たんだ。役場の紹介だよ。啓ちゃんに会うなんて思ってもみなかったよ」

その時、啓介の電話が鳴った。それは呼び出し音ではなく電池が切れる警告音だった。そしてなすすべもなく啓介の電話は不通になった。啓介の電話が通じなくなるとほぼ同時に、敏夫の電話が鳴った。敏夫が携帯電話機をポケットから取り出してその画面を見ると、グリーン株式会社と書いてあった。

「さっきの会社だ」
と敏夫が言って電話に出た。
「輿水です。さっきは有難うございました。
すると大きな声が電話機から漏れた。
「先ほどはどうも。まだ近くにいますか?」
「また戻って来ちまって、お宅の前です」
敏夫がはにかんで答えた。
「そうか、それはいい。もし時間が有るなら食事でもしていってください」
携帯電話がスピーカーと化していた。
「でも友達と一緒です」
敏夫が答えると「ではその方も一緒にどうです?」と来た。

啓介はその携帯に向かって叫んだ
「ご一緒させてくださーい!」
「では神田橋のたもとの若竹っていう小料理屋に居てください。直ぐ行きます」
スピーカーが叫んだ。啓介も負けずに「そこ知ってまーす」と叫んだ。敏夫は携帯の声に向かって言った。
「すみません。こんな奴ですが連れて行って良いでしょうか」
携帯からは大きな笑い声で「大歓迎です」と言う声が聞こえた。敏夫はほっとした。啓介は「すぐそこだよ」と言って先に立った。50メートルほど先の高速道路の下の神田橋のたもとにその小料理屋の小さな看板に灯りがともっていた。店には4人が座れるちゃぶ台が2つ並ぶ座敷と後は8人ほどが座れるカウンター席がLの字に設えてあった。

「らっしゃい」
甲高い声で痩せて小柄な主が二人を迎えた。
「輿水様ですね。どうぞどうぞ座敷におあがりください。ずーっと奥の御席へどうぞ」
啓介が小声で言った。
「ずうっと奥の方に行ったら川に飛び込んじゃうだろ」
そんな小さな店だった。
啓介の頭から魚の群れは消えていた。魚はみんな下の川に帰って行ったのかもしれない。さっきの憂鬱な気持ちも晴れていた。
「先ほど渡田と言う方から電話をいただいて。4人様の席をお作りしておきました」
と上さんが言った。
「渡田さんがお見えになるまで、おビールでもお持ちしましょうか」
敏夫が啓介に言った。
「渡田って、としちゃんの土地を借りるとか買うとか言っている人?」
「違うよ」
敏夫は首を振った「渡田って誰なのかね?土地に興味がある社長は末広って言うんだけどね。でもなぜ3人じゃなくて4人なんだ?」と啓介は言った。「だれでもいいよ。「『俺は渡田だが、お前たちなど知らないからその席を移れ』」って言われても、それはそれでいいし、『知らない奴のビール代なんか払えん』と言われてもそれはそれでいいじゃないか。ビール代くらいあるよ」
「そうだね」敏夫が言った「飲んじゃっていいのかな」
「飲みたいけどな」啓介が答えた。
「お飲みになったらいかがですか」お上が言った。「どうにかなりますよ」
「ではまずビール」と二人同時に言ったので店主を入れて4人が笑った。

啓介たちが山の天気や山菜の事を語り合っているうちに筍の木の芽あえの突きだしと瓶のビールをお上が持ってきた。お上が一本のビールの栓を跳ね、二人に注いで下がって行くのを待って敏夫が言った「こういう時って先に飲んじゃまずくない?」「先に飲むからうまいんだろ、飯のあとではまずくなる」と啓介が言うと、敏夫は「味の事でではなくってさあ」と言う間もなく啓介がすでに「じゃあお疲れ」とか言って、ちょっとコップを持ち上げてからそれを口元に運ぶと一気に飲み干してしまった。

仕方なく敏夫もビールを三分の一程口に含んだ時、店の引き戸が滑る音がした。主の「らっしゃい」の声に、もう一杯つごうとしていた啓介は手を止めて上目使いにその声の主を見た。すると背中で引き戸の音を聞いた敏夫は思わず含んでいたビールを啓介に向けて噴き出してしまった。啓介の顔中がビールにかかっているのを見て「浴びるほど飲んでますな」と野太い声がした。敏夫が首を回すと、声の持ち主は「そのまま、そのまま」と言った。まるで麻薬取引の現場に警察が強制捜査にやって来たようだなと啓介は思った。

第五号◆末広

敏夫は「そのまま」の声で固まってしまった。
しかしすぐ、「そのままお続け下さい」の意味と分かって力を抜いた。
啓介が立ち上がって挨拶をしようとするとそれを制して「そのままどうぞ」と、その無精髭の太って大きな男が言ったので、少し腰を浮かせて頭を下げただけで啓介は座りなおした。「捜査みたいに言わないで下さいよ」
首を回して敏夫が言った。
「いやいやすみません」
ずかずかと入ってきた50半ばの男は、啓介の横で無遠慮に胡坐をかいた。彼の後ろにいたもう一人の人物が現れた。背の高い50年配の温厚な顔が微笑んでいる。
「桐嶋です」
とグレーのタートルネックにツイードのジャケットの人は丁重に頭を下げた。
「桐嶋さんはジャーナリストです」
末広は言った。「そっちに座ったら」
店の主人が言った。
「予約くれたのは末広さんですか?」
「そうだけど」
末広は怪訝な顔をして答えた。
長い間床屋に行っていないらしく、髪の毛がボサボサで日焼けして、太編みのハンドニット、カウチンセーターを着ているからエスキモーの様に見えた。
「私だ!なんて言って電話を切ってしまうから、てっきり
“ワタシダ”と言う人だと思いましたよ」
「”ワタシダ”さんのビールを飲んでるかと思って、緊張してしまいましたよ」敏夫が笑いながら抗議した。桐嶋も笑いながら敏夫の横に座った。
「俺たちもビール、いいよね?」
末広は桐嶋に念を押すようにして主人にオーダーした。

「末広さんに、取材に来たら飲みながら話そうと言われて強引に連れてこられました」
桐嶋は言った。
「地球温暖化と自然再生エネルギーの問題を書いているのです。末広さんがその事業をされているので、取材しています」
啓介はかっこいいなーと思った。この人は自分の意志でしゃべったり書いたりするんだ。
「自然再生エネルギーってなんですか」
啓介が聞いた。
「太陽光や風力みたいなやつかな」
末広が答えた。
「私、吉井啓介と申します」
啓介は名刺を二枚出して、末広と桐嶋に深々と礼をしながら差し出した。
「保険屋さんか」
末広は名刺を眺めて言った。
「ウチの施設にも保険はかけないといけないな。ところで皆さんなんでも好きな物を頼んでください」
お上が品書きを持ってきて、皆がそれを眺めていると末広が言った。
「面倒だからまかせるよ」
お上がにこにこしながら品書きを手元に戻すと、主人が
「小名浜から上がったサバがありますが、、、」
と言うと末広は
「なんでもいいから早く持ってきて来てくれ」
といってビールを飲み干した。

飲み干すと桐嶋に向かって言った。
「こちらの方、輿水さんが、土地を売るか貸すか検討して下さるんだ」
「これからの日本にソーラーは意義が大きいですよ。私は、原発の危うさをチェルノブイリのときから書いているんですが、日本は地震国だからね。怖いです」
桐嶋が言った。

第六号◆ジャーナリスト桐嶋

「関東大震災のような奴はきますか?」
と尋ねてみて啓介はバカな質問をしたものだと自分で呆れた。
桐嶋はそれでも律儀に頷くと
「政府も行政機能を地方に移動させようとしているのだから、彼らも来ると思っているのでしょうね」と言った。
「我が北杜はめったに揺れんですよ」と敏夫が言うと「土地を譲ってもらったらみんなで移住しようか?」と圭介が言った。
しばしの沈黙がやって来た。啓介は八ヶ岳の主峰赤岳を頭に浮かべた。桐嶋は原発の取材を終えたらそれを本に纏めようとしていたので、八ヶ岳あたりで書きたいなと思った。末広は事業展開を夢見ていた。敏夫はこの連中が移住して来たら楽しいだろうなと想像していた。
「では移住を約束して乾杯」末広がコップを持ち上げると、敏夫と桐嶋が「乾杯」と言った。
啓介も「かんぱ~い」と言ってはみたが、内心ではほんとかよーと思った。
桐嶋はチェルノブイリやスリーマイル島のこと、末広は世界のエネルギー政策の事、敏夫は放棄された農地と森林のことを話し、啓介はそれぞれの話を頷きながら聞いて時は過ぎた。

他に客がいなかったので、店主とお上がカウンター越しに会話に加わった。二人とも福島の小名浜の出身でそれぞれ漁師の息子と娘で同じ高校の同窓生で年は2つ違いだと言った。ビールがかん酒に変り皿から肴が無くなる頃、敏夫が最終電車に乗る、と言って席を立った。
末広は大あぐらをかいたまま、近々お邪魔する
と言って陽気に別れの挨拶をした。桐嶋はテーブルに手をつくと跪いた格好になって慇懃に礼をした。啓介も帰ろうとしたが、末広の東京の連中はまだいいじゃないかと言って引止めたので啓介は今少し居残ることにした。啓介は敏夫を出入り口まで送って行った。店を少し出たところで「愉快だった。有難う」と敏夫が振り返って言った。「偶然って楽しいよな、俺これからも行き当たりばったりで生きてゆくよ」と啓介は言った。「山で暮らそうよ啓ちゃん」敏夫は嬉しそうな笑い顔でそう言うと、踵を返し引き締まった背中を向けながら川の方に歩いて行った。敏夫の影が橋のたもとで闇に溶け込みそうになったとき、敏夫が手を振った。「山に来いよーと」と言う敏夫の声が聞こえて、姿が見えなくなった。啓介は叫んだ。「行くぞー」

啓介が席に戻ると末広が大きな身振りで話していた。「いいかい。耕作放棄された農地は今や岐阜県位の面積になっているんだぞ」
とっくりが5本テーブルの上で倒れていた。「しかしまだまだ農産物は作りすぎなんだ。作っても売れねーから耕作を放棄するんだろ。食糧需給率が低いなんて話は大ウソだ。余っちまってどうしょうもねーから皆タダで配って、最後には捨てるんだ」桐嶋が小まめにメモを取りながら聞いた。
「では社長はどうしようっていうのですか?」
「農地を復興するのよ。復興の”こう”は耕作の
“耕”だ」
「でも農地法で農地は農業以外に使えないのですけど」
「じゃ復耕しねえから、勝手にしろよ」末広が箸をポンと投げて横を向いた。
「私が言ってるのではないでしょう。そういうのは農水省ですよ。さじを投げるというのは知ってますが、箸を投げるってのは知りませんね」
すると「そりゃそうだ」末広が頷いた。
案外素直なんだなと啓介は思った。
末広は気を取り直して続けた。
「だからよ。捨てられている田畑にソーラーパネルを敷設してその下で農業をするのよ」
「日当たりが悪くなりますね」
「日陰が好きな作物を作るってーのはどうだい」
酔ってくるとベランメー言葉になるんだな、この人は江戸っ子なのかなと啓介は思った。
「そんな作物ってあるんですか?」
「大有りよ!おおあり名古屋の金のシャチ」
なんてエスキモーが上機嫌になった。
「椎茸はどうだい。ミョウガだっていいぜ。朝鮮人参なんか日が当たっちゃーならねーんだ」
「それはそうですが、農作物は余ってるから耕作地が放棄されているんでしょう?プロが食えないから放棄した農地を社長が復耕してもうまく行くはずはないですけどね」
取材とはこうして本音を引き出すのだな、営業とか交渉とかの参考になるなと啓介は思った。

 

第七号◆食糧とエネルギー

「例えば裏の畑でキュウリを作るって思ってみなー」
末広が言うのを聞いて「敏夫だったら、作ってみろし」と言うんだなと啓介は思ったが、余計なことだと思い直した。人が喋っているのにいつも違うことを考える。
「わずかな量じゃ、農協にも持って行けず、近所に配ることになるよな。隣村に嫁いだ娘の所にも持っていくだろ、すると娘は『爺ちゃん一家三人でキュウリ100本なんか食べられんずら』と来るわけだ。仕方なしに爺ちゃんは10本だけ置いて、悲しそうに90本を持って軽トラで帰るんだが、途中で猿の親子に出会うと、キュウリ全部を投げてやるっていう図式よ。これでも自給率は40%を切るって言うのか?」

「じゃなんで日本は食料を輸入しているのですか?」桐嶋が聞いた。
「桐嶋さんは知っているくせに」と啓介は心の中でつぶやいた。
「すごいキャッチャーだよ。ピッチャーの持ち球を知っているくせに『ツーシームは投げられないよね?』とか聞いて、なにを言うかとばかりツーシームをピッチャーが投げると、パ―ンといい音をさせて捕球しておいて、『ナイスボール!シーズンに入ったらそれ決め球にしよう』

エスキモーは目をむいて言った。「あんたがたがワインなんか飲むからじゃねーか。つまみはなんでー、高級チーズか?キャビアか?日本はカロリーではなく輸入金額で計算して『ずいぶん輸入してますね~』とかいう国なんだよ。他の国はカロリーで計算だ。カロリーが一番高い食物はなんだ?米だろ?その米が余ってるの、減反しろのと言ってるやつが、自給率の危機かい?」

「そりゃそうですね」キャッチャ―が驚いたように言った。勢いに乗ったピッチャーは振りかぶって言った。直球をズバリと投げようとしている。「日本は世界で5番目か6番目かの農業大国だ!」
「どっちですか?」桐嶋が聞いた。

「あれ、7番目だったかな?とにかく農産品は売るほどあるんだけどよ。いくら作物があっても、石油がなければ運べねーよな」
啓介はまた他の事を考えてしまった。70歳を越えた吉田相談役と昼食を共にしたとき聞いた話だ。40年以上前日本を襲ったエネルギー危機、オイルショックの話を聞いたときのことだ。

当時は石油がないから物不足になると言って、国民全部がトイレットペーパの買い占めに走ったという話である。「新聞もテレビも石油不足の危機をあおっていたけど、私はそんな報道は嘘だと思っていたよ。当時私は海上保険の契約に注目していたんだ。だから当時一緒になった家内にトイレットペーパーなんか争って買うんじゃないといったのだが、女房は聞き入れなかった。タンカーの積み荷に掛ける保険の依頼は普段通りコンスタントに来ていたから、少なくともアラビアからのタンカーはコンスタントに航行していたとわかっていたんだよ」

 

第八号◆三協商事

3月11日
今日は大地震があった。家まで歩いて帰った。
東北は津波の大災害で、福島は原発に大問題が起きているらしい。

昨日の酒が少し残っているようだが気分はまあまあだ。
乗車がひと電車遅れたので、地下鉄大手町から走った。既に就職活動の学生たちはそこかしこにうごめいていた。エレベータの中にも黒いスーツの大学生のような男女が載っていた。10階で降りると、先に歩いていた人事部長のJack Rodwellを追い越しながら“Good morning Sir”Rodwellの声が背中の方から聞こえた。“Hi Keisuke How are you?”“Quite well Thank you”。席に着くと隣の長谷川由美子が「お酒臭い。昨日どこで飲んだのよ」
「いいだろどこでも、すぐ近所だよ」

去年の暮、残業を手伝ってもらったからお礼に八重洲で飲んで、酔っ払っちゃって二人でステーションホテルに泊まったのがまずかったと後悔した。あれから俺を支配したがるし、とにかくいちいち文句を言ったり直ぐに怒る。女ってやつは肉体関係が出来る何故と文句ばかり言うようになるのだろうか?会社に入って覚えたのはこの事くらいかな?と啓介は自嘲した。たしかに美人だけど気が強い、こんな関係になる前は明るくて控えめの女と思っていたが、全くやっかいなことになったと思っていると、「ミーティングだぞ」と平井に言われた。アメリカの会社の会議は金曜日が多い。やはりリクルート人事が議題だった。Rodwellがrecruiterと言って啓介を見た。そうだ俺はリクルーターだったのだ。

母校の学生が来週5人訪ねてくるらしい。そいつらの面倒をみるリクルーターだった。しかし訪ねてくる奴らをリクルーティーと言うのかなとか、くだらないことを考えているうちにミーティングは12時に終わった。12時半に馬喰町の三協商事と約束がある。コンビニで中華まんを三つ買って歩きながら食べた。海上保険の保険金請求の件だ。中国からの積み荷(ゴールデンウィーク用のブラウス)がカビだらけだったそうだ。12時半ぴったりに倉庫に入るともうカビの臭いがしてきた。

段ボールに黒いスタンプで(厦門SANKYO)と書いてあった。「もうかなわんよ。縫製は雑だし、中国船の荷扱いは酷いし」出迎えた50代の男が嘆いた。三協商事の社長岩田だ。アパレル会社の経営者らしく茶っぽいツイードのジャケットと同じような色のフラノのズボンを着こなしている。。啓介が段ボール箱の一つを開けると。確かに何枚かのブラウスに青いカビが生えている。今度は奥にある箱を開けてみた。今度は一番上にあるブラウスに緑の斑点が現れている。三つ目のダンボールに手を伸ばそうとすると、なんだか荷が小刻みに揺れ始めた。地震だ。しばらく揺れてから揺れは横に大きくなった。そしてダンボールの一角が崩れてきた。
「ウワー」と言う岩田の声が聞こえた。啓介の上にも大きな段ボール箱がいくつも倒れてきた。階下から女子事務員の悲鳴が聞こえてきた。

第九号◆3.11東日本大震災

啓介が倒れていないダンボールを抑えている間も揺れは続いた。どこか遠いところの大地震だ、と啓介は壁を背にして、腕を突っ張ってダンボールを押しながら思っていると揺れは小振りとなり、やがて収まった。「びっくりしたな~」と岩田が鼻を押さえながら呻いた。「大丈夫ですか社長」啓介が気使うと岩田は「鼻を打ってしもた」と言うので改めて見ると、鷲鼻から鼻血が少し垂れていた。啓介が岩田の方に近づこうとするとまた揺れ出した。「地震保険お宅で入っていたかな」岩田が尋ねた。「覚えていません。これが収まってから聞いてみます」

啓介が気乗りしない口調で答えた。「調べといてや」岩田が言うとまた揺れてきた。会社に電話をしてみた。いつもの受付の木村良子はなかなか出てこずに、由美子が電話にでた。「啓介、大丈夫?」と彼女が聞いた。動揺している。声が上ずっている。「三協さん地震保険に入っていたっけ」と啓介が言うと「ちょっといい加減にしてよ。すぐ帰って、、、、」と言うか言わないかで電話が切れた。啓介は会社にもう一度電話をしてみた。

通じなくなっていた。揺れが収まったところで岩田と階下に降りてみた。事務服を着た若い女性が抱き合って二人で天井を見ていた。他の男性従業員も右往左往だ。「社長、、」「社長さん」彼女たちはベソをかきながらこちらを向いた。岩田がそれに何か言おうとするとまた揺れ出した。

岩田は怪我はないかと言う代わりに「またや!」と言った。携帯電話が鳴った。会社からの電話が通じたのかと思ったら、香港のジェームス王からの電話だった “ Are you alright?”インターネットで知ったそうだ。”I’m OK”。でもほんとにOKなのかな?と自問してみた。

この電話も途中で切れた。今はニュースが世界をかけ巡るのだなと感心した。啓介は階上に戻った。ダンボールを片付けなければ。また揺れた。少し小さいがかなりの奴だ。カタカタ揺れる窓から電線が見えた。縄跳びのコードのように上下している。窓辺に寄って外を見てみた。

外は同じような古いビルとビルだった。ビル達はキャリーパミュパミュの狂信者達が曲に合わせて揺らめくようにそれぞれに身をくねらせていた。遠く芝浦のほうからどす黒い煙が入道雲のように空に向かって立ち上がっていた。「えらいこっちゃ」いつの間にか岩田が他の男子従業員を連れて戻っていた。「震源地は東北だそうや。電車みな止まってしもたらしいで」。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 

第十号◆歩く

三協商事のビルを出ると啓介は大手町の方に見当を付けて歩いた。電車が止まって、乗客は乗ったままらしい。道行く人がそんなことを言っていた。地下鉄新日本橋の駅から人が少し溢れていた。地震のせいかは分からないが、ワゴン車に乗用車が追突していた。緊急車両のサイレンが不気味に響く。

車は流れていたが、タクシーの空車は見つからない。建物から人々が出て来て、不安げに上をうかがっていた。気のせいか気味の悪いうろこ雲が西の空を南北に走っていた。晴天から雨がぱらついてきて、広島の原爆投下と雨の話を思い出した。薄気味がわるい。江戸通りを歩いて首都高をくぐった。

おおよその見当をつけて西に歩くと広い永代通りに出た。ビルのサイズがだんだん大きくなる。しばらく歩くと人通りが多くなった。人の流れは啓介と逆方向だ。帰宅が始まったらしい。リクルートの若者達もほうほうのていで逃げ帰っているのだろう。暗く顔のない群れが東へ移動して行く。流れに逆らうのは不安なものだ。

街路樹は芽を付けておらず、まるで魚の骨が累々と立っているようだ。余震は度々地面を揺らす。大きな枝が裂け落ちている。その枝を避けて歩こうと脇に寄ると、路地にラーメン屋の暖簾が赤く見えた。急に腹ごしらえをしなければと思った。そのままラーメン店の方に向かってガラス戸を開ける。

地震のせいか建て付けがとても悪い。60がらみの店主が一人で立ったままテレビをみている。客は誰もいない。店主はこちらを振り向きもせずにカウンターに置かれた古テレビを見ていた。どこかの海岸に大波が押し寄せている映像が映っていた。大波が何艘かの漁船を浜に打ち上げている。波が堤防を越して、船も堤防を乗り越えた。

後ろ向きで打ち上げられる舟、横倒しになって翻弄される舟。誰かが「危ない」とか「逃げろ逃げろ」と叫んでいる。画面が揺れている。その映像は度々途絶える。そして画面が変わる。アナウンサーが登場して「東北地方の沿岸が未曽有の大津波に洗い流されている」と興奮を押し殺して語っている。東京湾にも来るかもしれないと啓介は思った。それならなおさら食っておかなければ。「ラーメンに餃子二皿」啓介が注文すると店主はテレビを見ながら支度を始めた。啓介も地震で落ちなかったテレビを見ながら、カウンターの丸い椅子の一つに座った。津波が来ても食ってから逃げよう。また揺れる。揺れる度に道に人が出てくる気配がして金切声も聞こえる。

 

第十一号◆人って何だ?

テレビを食い入るように見つめている啓介の耳に店主の声が聞こえた。ラーメンがあがったかと思って啓介が振り向くと、そこに困惑と怯えの混じった店主の顔があった。「ガスがダメだ」。

仕方なしに啓介は店を出た。食えないと思うと余計腹が空いた。電話は依然としてつながらない。堀端に向かって歩く。この通りにはコンビニも無い。グレーの街の黒い魚群がJRの高架線をくぐると左に向かって足早となった。東京駅に向かっている。啓介も東京駅を見ておこうと思った。

菓子パンぐらい買えるかもしれない。しかし魚群はどんどん密集してくる。駅前のバス停には長い列ができている。キオスクにも人がたかっている。駅から人が溢れている。しかし皆とてもおとなしい。流れている時には魚群だったが、停まっていると屠殺を待つ、運命に従順な牛の列に見える。

「有難うございます。今まで肥育していただいて。では一気にお願いします」。啓介は八重洲のバス停を丸ビルの方に曲がって歩いた。歩きながら考えた。東北の人は津波で死んだ。人間はいつか死ぬのだが、いろいろな死に方がある。津波に追われてもがきながら死ぬ人もあれば、死ぬまで戦って息絶えることもある。あるいは刑場に引き立てられる死刑囚となって無抵抗に死ぬかもしれない。俺はどんな死に方をするのだろうか。例え敵につかまっても、最期まで抵抗したいな。何よりも大切な命と言うが、本当に命より大切な物はないのだろうか?

プライドはどうだ?もちろん命より大切だ。愛は?もちろん命より大切だ。仕事は?そこにプライドや愛があれば大切だろうな?でもプライドや愛が有る仕事なんてあるのだろうか?よくわからなくなった。

仕事と死なんて結びつけたことがなかった。でもきっと東北の人たちは自分を顧みず溺れた人を助けたり、愛する人の元へ駆けつけようとしたのだろう。命より大切な物は有るではないか。啓介、何を考えているんだ。お前はいつものように喰いそびれたラーメンや餃子の事を考えていればいいのだ。そうだラーメン屋はまだ店に居るのだろうか?店は地震保険に入っているのだろうか?

三協商事は保険に入っていただろうか?東北の地震に我が社はどれだけの保険金を払うのだろうか?どうでもいいだろう啓介。お前の懐が痛むわけではない。自分の懐が痛まなければ東北の人はどうでもいいのか?考えたってお前は何もできないだろう啓介。それより東北の地震が東京直下の大鯰を起こしてしまったらどうするのか?東北どころではないだろう。

今、日比谷公園と帝国ホテルの間の大通りに海から大津波が押し寄せてきたら、そうしたら溺れる人を浮き輪代わりに使っても助かるのか?命がそれほど大切ならそうしたらよい。啓介は死に方を考えながら歩いた。自分が無実の罪で捕まって死刑を宣告されたら何とか検事官を殺そうとするだろう。出来なくても怒りをもってそうしなければならないのだ。

刑執行間際にナイフを隠し持って死刑執行官を殺すだろう。それが出来なければ唾くらいは吐き掛けろ。それは男ならやらなければならない事なのだ。では地震はどうだ、津波はどうだ。地震や津波を殺せるか。おっともう会社の前だ!

第十二号◆帰宅難民

エレベーターは止まっていたので暗い非常階段を昇った。人々が下りてくる。登っているのは啓介だけだった。最近の運動不足と体重増加のせいで10階で一休みしなければならなかった。階段に座って休んでいるとまた揺れが来た。座っている啓介を避けながら降りてきた女性たちが「もういやだー」とか言って靴音を荒げて降りてゆく。

啓介は立ち上がってまた昇りだした。膝に手を置いて、自分の太ももを押しながら14階にたどりついて会社に入った。5時を回っていた。人気があまりなかった。平井も由美子も居なかった。自分のデスクに行くと会社の名前が英語で書いてある黄色いヘルメットが置いてあった。ノートパソコンが床に落ちていた。拾ってデスクの奥に置くと小さなメモが有った。三協保険ナシ、先に帰ります。気を付けて。由美子。また少し揺れた。席にもつかず啓介はヘルメットを取ると部屋を出て、また同じ階段を降りた。もう誰も降りていない。

金属的な靴音が響き続いた。一階まで降りたがもう誰もいなかった。ビルを出るとまだ皇居の森に陽が沈もうとしていた。大手門の壁が気のせいか剥げ落ちているように見えた。昨日までは真っ白だったのに黄昏時のせいか今日は所々が茶色に見える。先程見た東京駅八重洲口の様子ではとても電車は動くまいと啓介は思った。しかし人々は一途の望みをもって東京駅や地下鉄大手町に流れて行く。啓介は足を止めてその流れに従おうかと一瞬思ったが、「豪徳寺まで歩いてやるさ」と自分に言い聞かせてまた歩き出した。

しかしまた止まって「会社で寝るか」とも思った。しかし一晩中揺られるのもかなわないので、また堀に向かって進んだ。堀に突き当たると啓介は右に折れて日比谷公園の方に向かおうか、昨夜のように神田の方に行こうかと考えた。世田谷の豪徳寺まで歩くにはどちらが近いだろうか。携帯のGPSを見ようとも思ったがそれも止めた。

つながるわけはない。とにかくとんでもない距離だ。何時に帰れるかも分からない。啓介は堀端に佇んでしまった。「もうすぐ桜が咲く季節だ」堀には水鳥は一羽も見えなかった。きっと地震を予知して北へ帰った行ったのだろう。水面をを見つめているけ啓介の脇にいつの間にか車が止まっていた。白いメルセデスベンツだった。

運転席のスモークガラスがスルスルと開いて左ハンドルの席の男が「乗るかい?」と言った。坊主頭にサングラス手首には金の時計が光っていた。後ろの座席には3人座っているらしかったが、ガラスにスモークがかかっているからよくわからない。

 

第十三号◆パニック大手町

地獄で仏のような気がした。しかし嫌な臭いも湧き上がる。「しかしここから小田急沿線豪徳寺まで歩くのだったら」と思った。だけど自分だけが甘い汁を吸うのは気が引ける。啓介は周りの達を見渡した。「困ったときはお互い様だ」サングラスが言った。

「どこまでだい」「新宿か渋谷の方に行きたいんですが」ベンツの男が言った。「一万だ」啓介はとっさに答えた。「高いよ」すると運転手は無言で正面を見た。ガラスがするすると上がって車は神田方面に去って行った。堀端をタクシーが客を詰め込んで何台も通り過ぎて行く。空車のタクシーなんてありえない。タクシー乗り場は長い列ができているのだろう。

啓介は地下鉄大手町の駅に戻ってみた。魚群の様に人が地上まで溢れていた。埒が開きそうもない。啓介はもう一度電車の様子をみようと思い、東京駅に向かった。しかし状況はさらにさらに悪化していた。無彩色の群れは漁船から落とされたイワシのように厚く広がり地面が見えない。

群れは八重洲口の外のバス停に広がり、海蛇の様にうねるバスを待つ列と混ざり合っている。皆いつ復旧するか分からないのに律儀に復旧を待っている。真夜中には復旧するのだろうか?多分無理だろう。始発には間に合うのだろうかわからない。だけどバスは生真面目に到着と出発を繰り返しているが終バスまで乗れるかどうかわからない。乗れても小田急線豪徳寺まで行くバスなどありはしない。さっきのベンツに乗っていればよかったと啓介は思った。今思うとそれは確かに一万円の価値が有った。だだ自分は一万円を持っていなかった。

ATMも動いているか分からない。そういえばと啓介は思い出した。ニューヨークには白タクの様な物があった。それが合法か違法か揉めていた。イエローキャブがそれにやられるほどの社会的需要があったことを懐かしく思った。あのベンツに自分はなんで気が引けたのだろうと考えてみた。一万円が高かったからか?運転手の風体か?違法だからか?啓介は考えてみた。違う違う!人と違うことをする事に気が引けたのだ。

でも今は後悔している。すると周りの電気が急に消えた。東京駅、中央郵便局、丸ビルの明かりもだ。恐怖の声が地鳴りのように響いた。電気がまた点いた。歓喜の声が空に上がった。こんなに闇夜が恐ろしく、明かりを有りがたく思ったことはない。啓介は昨日の豪華とは言えない小さな宴を思い出した。末広さんの事務所に行って見るか?

第十四号◆グリーン株式会社

そう言えば末広さんは保険に入りたいとか言っていたっけ。いつもは世間話を手土産に保険を売るのだが、末広さんには保険を手土産に色々なことを聞いてみたい。一休みもしたいし。事務所で寝られたらもっといい。

末広に貰った名刺に電話をかけてみた。繫がらない。では訪ねて行ってみよう。東京駅から永代通りに出て、黄色の信号が点滅するだけの大手町の交差点を右折して日比谷通りを神田橋の方に曲がった。この辺までは社有の黒塗りの乗用車が帰宅する重役たちを乗せて過ぎ去っていたが、どの車も堀端に向かってから日比谷方面と竹橋方面に分かれて走り去っていった。

なぜそれらの高級乗用車がすし詰めでないのか啓介は不思議だった。帰宅難民に乗客が一人の高級車。日本も格差社会になったのだなあと考えながら神田橋を渡った。川は日本橋川と言う神田川の支流だ。この川に沿って保険会社や銀行、証券会社に商品先物取引の会社が並び、繊維の街を横に見て、川は隅田川に注ぎ込む。

その川沿いを本流の神田川の方に少し折れてから路地に入って名刺の住所にたどり着いた。大通りから少し外れるとビルも古く小さくなる。ここは神田だ。そのなかでもひときわぼろい雑居ビルの階段を啓介は上がった。エレベータのない4階が末広の会社だった。

「グリーン株式会社」と日の丸に下手な字が書いてあるドアを押した。ソーラー発電の会社だか右翼の事務所だかよくわからない看板だ。やれやれ、今日は良く歩いたと啓介は思った。しかしよく歩いたと言うのは変だと思い直した。ここは自分の家ではない。「ここまでよく歩いた」と言うべきだろう。また少し揺れた。啓介はそっと灰色の金属性のドアを引いた。 

「こんにちは」
「どうぞー」と野太い声がした。
「突然すみません」テレビを見ていた大きな背中の男の首が捻じれて半分こちらを向いた。
「君かい」

末広は啓介の来訪に特別な関心を示さなかった。良くもない悪くもないほんのそこまで出かけていた家族が帰って来た時に見せる顔と声だった。
「突然お邪魔してもうしわけありません」不意の飛び込み営業で繰り返すあの口上を啓介は述べた。

末広はそれに対して「大変だね。ビール飲む?」と応じた。
彼はデスクの上でペンや鉛筆を入れるために置いてあったコップのボールペンや鉛筆をテーブルにぶちまけてからそれに缶ビールの残りを注ぎ込んで啓介に渡して言った。

「原発がやられた」
「えっ、ミサイルにですが?」
「いや津波だ」
テレビには空色に塗られた箱のような建物から薄く煙が出ている画像が映っていた。

 

第十五号◆

「原発がやられた」
「えっ、ミサイルにですが?」
「いや津波だ」

テレビには空色に塗られた箱のような建物から薄く
煙が出ている画像が映っていた。
啓介はそのコップから生ぬるいビールをごくりと飲み込んだ。発泡が口内に広がり喉に落ちた。喉が痛いが味がしない。「もっと飲みたけりゃ冷蔵庫から出せばいい」

「有難うございます」
啓介はそのまま奥の冷蔵庫に向かって大きくもない冷蔵庫を開いた。酒屋みたいに缶ビールが整然と詰まっていた。
とにかく飲んで落ち着かなくちゃ。
落ち着いて今日起きていることを把握しよう。

啓介が一本長めの奴をとりだすと二本零れ落ちたから
三本持ってテレビに戻ると末広は初めて啓介を見て「どの椅子でもいいから座んなよ」と言った。
グレーのどこにでもある安っぽい事務机と椅子だった。

「いただきます」啓介は一本自分用に取って二本を
末広に渡した。プルトップを引くと泡が溢れ手の甲を濡らした。それをなめながら啓介はこんどは缶に口をつけて飲んだ。一気に飲んだ。胃袋が少しなごやんだ。

「阪神から東北かあ、、、東京とか九州に来るかもしれないな」
末広がつぶやいた。
「東京に大きなのが来るって昨夜っていましたよね」 
「言ったよ。列島がもみくちゃになるのかしれねーな」
啓介は頷きながら古くて小さなテレビの画面を覗いた。

画面が変って今度は何艘もの船が岸に向かって押し寄せられていた。くるくる回る舟、後ろ向きに突進する船、横倒しになってもがくように堤防を越え、上陸し、家にぶつかり壊し、乗り越えてさらに進む。車達は浮きあがり、濁流に飲まれたり翻弄されながら町を漂流している。水の轟音はテレビが唸っているような音だ。

人々は叫び、サイレンが鳴り響いている。画面には気仙沼と書かれている。「気仙沼」すね」と啓介がつぶやくとテレビの画面に地震情報が文字で出た。やや大きめの揺れが東京に来ます。

「来たんですかね?」
「違うだろ。ちょっとした揺れじゃないか?」
「だんだん大きくなったりしませんか?」
揺れが来た。ドンと突き上げたが それきりだった。
画面は違う海岸を映していた。海面が刑務所の壁のようにそびえ立ち、その壁が陸に向かって押し寄せていた。濁流の壁は堤防を飲み込み、前のめりになってまず2台の乗用車を手始めに弄ったと思うや、家々を土台から浚い始めた。

インクブルーの屋根の住宅たちが 押されまろび、互いにぶつかり合って混ざっていった。波頭が大きく口を開くと、飛沫を天に吐き散らし、この世の人口物を全て噛み砕き飲み込んだと思うと、その死骸を吐き出しては反芻した。憎悪と激怒の咆哮は間断なく限りなく見渡す限りを揺るがせていた。

 

第十六号◆夢

それはなんでもないレフトフライだった。ライン際にバックして逆シングルで易々取れる打球だった。
一塁と二塁のランナーはベンチへ、チームメイトはベンチを出て守備に就こうとする、もう終わっていたあたりだった。しかし8回の守備からいきなり、それも初めて命じられて入ったレフトに啓介には自信がなかった。チーム一のスラッガー、4番打者でレフトフィールダーのネイルがhit by pitch(デッドボール)を頭に受けて退場したために、控えのセカンドの啓介が初めて命じられたレフトだった。ふらふらと上がった当たり損ねのボールは、レフトのライン際に上がっていた。浅く守っていた啓介が5,6歩下がってから少し前に出て捕ればスリーアウト チェンジだった。

しかしボールはサードの頭上を越す頃からライン際に曲がりだした。本職のレフトなら分かっている事だった。しかし4,5歩前ボールを見上げながら後ずさりした啓介には予期しない球道だった。啓介は慌てて体を斜にして打球を追ったが、ボールはどんどん切れて啓介のバックハンドのグラブの先をかすめフェアーグランドに落ち、フェンスに向かって転々とした。 

どこからか悲鳴とも罵声ともつかない叫び声が聞こえてきた。緑の芝生を走る啓介の時間はとてもゆっくり流れていた。ゆるゆると逃げるボールを他人事の様に追う視線の先に白いユニフォームのセンターがボールをすくいあげているのが見える。

「世の終りが来ればいい」と啓介は思った。
その瞬間大波が外野スタンドを走り降りてくるのが見えた。大波は外野スタンドを巨大な滝となって落ちてきた。それは苦も無くフェンスを乗り越えてグランドを水没させて行った。ボールもセンターも水に呑み込まれた。啓介も波に押し流されて翻弄された。「ああよかった」啓介は波にもまれながらそう思った。助かった。これでノーゲームだ。

波が啓介を深海に呑み込み、魚の群れに混ぜると啓介も黒い魚となって移動しだした。自由がきかない。
ただ押し流されている。息苦しい。魚なのになんで息苦しいのか。体が動かない。声を上げようにも泡が出るだけで声が出ない。良子の声がした。

なにか言っている。良く聞こえない。良子が水面を泳いでいるのだ。裸だった。すると自分も裸の男に変った。顔が水面に少し出た。そこで目が覚めた。大きく息が吸えた。喉が渇いていた。ここがどこだか分からない。ソファーに横たわり、体の上にはかなりの枚数の新聞紙が乗っていた。ぼんやりと照らす黄色い非常灯でそこが末広の事務所だと分かった。

 

第十七号◆3月12日 The day after

原爆ドームは原爆のすさまじさのシンボルではない。
全ての建物が倒壊したその中でも唯一立ち続けた日本復興のシンボルなのだ。

窓から薄明かりが差している。テレビがついたままだ。
一面が火の海だ。画面の上に気仙沼と書いてある。陸地に大きな船が置かれている。由美子からメールが入っていた。電話をした。「なんだよ」キンキンした声が返ってきた。

「なんだよじゃないでしょ。今どこにいるのよ」
「会社の近くだ」
「連絡しなさいよ」
「うん」
「会社に来るのね?」
「ああ」

いびきが聞こえてきた。末広がかいているのだ。
部屋の隅に寝袋が転がっていた。末広の大きな体で寝袋はゾウアザラシのシルエットの様に見えた。
電話がキンキン喋り続けている。
「今何時だよ」
「6時よ」
「一眠りしてから会社に行くよ」
「そう」と言って電話が切れた。

夢の中では二頭のイルカのように裸でじゃれ合おうとしていた女の電話との会話ってこんなもんかな?
と啓介は思った。どうでもいい仲なのかな?それとも
夫婦みたいに近しいのだろうか? 
携帯電話を見つめながら考えていると母の恵子からのメールが目に留まった。ニュージャージーからだった。ケイちゃん大丈夫?と数回入っていた。啓介が返信しようとしたとき、電話が鳴った。母からだ。

「大丈夫ケイちゃん」
「何ともないよ」
「ロバートも心配して早めに帰って来てくれているのよ」
「東京は大丈夫だよ」
「そう、何ともないのね?」
電話の向こうで英語が聞こえた。
「He said no problem」
「OK Good」
電話が低く深い声に変った。
「Kei are you alright?」
「Yes,Rob…Ah dad」
啓介は2年前ニュージャージーで実の父啓一を亡くしている。突然死だった。朝ドミトリーに電話が来た。
母からだ。
「パパが息しない」
「誰が?」
「パパよ」泣きながら叫んでいる。

そんなことを思い出して義理に父と話している。
ロバートと言うと母はきつい声でダッドと言いなさいと言った。ロバートは首を振りながら「It’s OK 」と言ったことを啓介は思い出した。
電話の向こうで「Good to know you are alright」

それで電話は母に代わった。「よかったわ~」母はまだ何か喋りたそうだったが、啓介は「心配ないよ」とそっけなくいって電話を切った。

母だろうとガールフレンドだろうと女との長話が啓介は嫌だった。女はよくしゃべる。相手が喋り終えるのを待たずに喋り出す。口が大きく耳が小さい。ゾウはいいな、耳が大きいから優しいんだ。薄明かりのなかでゾウアザラシが動く音がした。大きな放屁の音もした。
「何時だ?」低くかすれた声がした。
「6時くらいじゃないですか」
「腹空いたな」
「そうですね」
「ビールしかないぜ」
「朝から飲めません」
「そうだな」